ASUNAの新作パフォーマンス『Falling Sweets / Afternoon Membranophone』に西島大介が聴いた〈音楽〉

 

Mikiki(2022)


クリント・イーストウッド主演の映画『人生の特等席(原題:Trouble With The Curve)』は、年老いた大リーグのスカウトマンの物語。イーストウッド演じるスカウトマンは視力を失いつつあり、マウンドの情景や、選手の表情が見えない。しかし、熟練のスカウトマンである彼は、耳を澄まし、バットやミットの音を聴くだけで、その選手が有能かどうかを知ることができる。
家族の繋がりを回復していくストーリーとは別に、観ること、聴くことについて、ふと考えさせられるシーンだった。その時スカウトマンは、野球を観ているのか、聴いているのか? それはスポーツというショーなのか、それともいっそ聴くことだけでも成立する〈音楽〉なのか?


音楽家ASUNA(アスナ)によるプロジェクト『Falling Sweets / Afternoon Membranophone』も、これと同様に、〈今、観ている、聴いているものは何か?〉という問いかけが、観客の心の中で繰り返されるパフォーマンスだった。
2002年にファーストアルバム『Each Organ』をリリースしデビューしたASUNAは、近年特に海外での評価が高まっている。100台のカラフルなキーボードを地面に並べ、木の棒を挟み込み音を持続させ、音のぶつかり合いを発生させるプロジェクト『100 Keyboards』は、米国〈ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック〉での三日間五公演が全てソールドしたのだそう。『100 Keyboards』については、僕は、写真と動画でしか見たことはないけれど、それは演奏のようであり、美術作品の展示にも感じた。100台のキーボードが曼荼羅のように並ぶヴィジュアルはポップで明快。アートとしての強度がとても強いフォトジェニックさ。その反面サウンドは硬派で、集められたチープなキーボードたちがメロディを奏でることはなく、スピーカーを内蔵したそれぞれのキーボードは、ただ音響的に干渉し合う。チープな音響装置が集まって、音響空間を作り出す様は、ヴィジュアルのポップさに対して、暴力的とすら感じた。

『100 Keyboards』に続く最新プロジェクト『Falling Sweets / Afternoon Membranophone』は、僕にとって初めて生で触れるASUNAのパフォーマンスだ。配信限定の公演を、配信スタッフの傍で鑑賞する機会を得た。

パフォーマンスと言ってもステージがあるわけではない。SCOOLというイベントスペースのホワイトキューブ的な室内の一角に、食卓を模したテーブル、イス、テーブルクロス、照明、分解されたドラムセットなどが音響装置とともに配置されている。天井からは、カラフルな〈粘着性の紙テープ〉が何本も吊り下げられ、テーブルクロスの上には、シンバルの片面や、小型の通電式シンセサイザーなどの機材が、あたかも〈晩餐の食器類〉のように並んでいる。空のワイングラスもある。よく見ると食卓に散らばるのは料理ではなく、様々なお菓子。『100 Keyboards』同様にカラフルで写真映えのする光景だけれど、『100 Keyboards』がストリートカルチャーなら、こちらは演劇のセットのよう。路上から食卓へ? 床置きだった『100 Keyboards』と比べると、テーブルの分だけ目線が上がっている。〈最低限のテーブルマナーが必要そうだな〉と、開演前から面白く感じた。

パフォーマンスが始まった。『100 Keyboards』においてASUNAはキャップをかぶったストリート風のファッションだったけれど、今回は白いシャツにサスペンダー、ゆるいズボンという、ヨーロッパ的な古風なファッション。まるで〈演劇部〉だ。ASUNAと連れ立って、〈恋人〉とも〈奥さま〉とも取れそうなパートナー役の女性も入場。お互いが向かい合ってテーブルに座った。ここまでは無音。

二人はそれぞれお菓子の袋を手に取り、その中身を口に放り込む。唾液に触れるとパチパチとはじける〈パチパチパニック〉(昔の〈ドンパッチ〉のようなもの)を二人が口に含むと、腔内が拡声器のような役割を得て、会場の室内に〈パチパチ〉と大きめの生音が響いた。〈口に広がるパチパチパニック〉を、音として客観的に聴くという体験が序盤からとても興味深い。

食べきれない〈パチパチパニック〉は、卓上の〈空のワイングラス〉に注がれ、天井から吊るされた、定期的な給水装置〈水やり当番〉が、グラスの中にポタポタと水滴を垂らす。水滴が落ちるたびに、グラスの中の〈パチパチパニック〉は音を立てて弾け、今度はグラスを伝わりその音が会場に響く。〈パチパチ〉という音は、エレクトロニカサウンドを例える時によく使われる〈チリチリ〉という音にも似ていて、とても〈音楽的〉と感じた。

ASUNAとそのパートナーらしき女性は、二人は今度は別のお菓子の封を開ける。時々それをもぐもぐと沈食しながら、お菓子の一粒一粒を、天井からぶら下がったカラフルな両面テープに貼り付ける。テープに張り付いたお菓子は、粘着性の限界がくるとランダムに落下し、テーブルの上に並んだシンバルなどの打楽器の上に落ち、音を発生させる。予期せぬタイミング、時には演出されたかのようなタイミングで、卓上のシンバルは〈チーン〉〈コツン〉と音を鳴らす。

これらのパフォーマンスは、ハプニング的な現代美術作品なのだろうか? それとも、セリフがなく物語性が希薄な、特殊な無言劇なのだろうか? アクターとして演技なのか、芸術家としてのインスタレーションなのか? それとも音楽家としての演奏? まだわからない。

しかし、パフォーマンスの途中、ASUNAは後ろを振り向き音響スタッフ(PAエンジニア)に向かって、片手で指示を出した。パフォーマンス冒頭から続く〈演劇部〉っぽい演技ではなく、少しだけ厳し目な表情で、手をくいくい動かした。それは〈電子音の音量をもっと上げて!〉という明確なメッセージ。
『Falling Sweets / Afternoon Membranophone』では、自動的にお菓子たちが奏でる生音とは別に、シンセサイザーなどの電子音源を奏でる音もお菓子のトリックによって同時に鳴らされている。音を増幅して伝える音響装置も実はある。〈音量をもっと上げて!〉という指示を出した、ということは、演劇のように見えて、展示するに任せたアート作品のように見えて、このパフォーマンスはやはり〈音楽〉なのだろう。〈音楽、音響としての良し悪し〉についての明確な判断基準がASUNAにはあり、〈演劇部〉風の朴訥でユーモラスな演技を脱ぎ捨てて、スタッフにその指示を出したことは、それが〈音楽〉であることの証拠だ。
結果的に、『Falling Sweets / Afternoon Membranophone』を間近で鑑賞した僕は、それを間違いなく〈音楽〉だと感じた。もちろん、この作品は、先鋭性のある演劇祭での上演はできるだろうし、記録映像としてスクリーンで上映しても面白いだろう。美術館でのパフォーマンスにはぴったりだし、上

演し終わったセットをそのまま展示しても見栄えがあるだろう。その開かれた横断の可能性こそ『Falling Sweets / Afternoon Membranophone』の優れた部分だと思う。しかし、だとしたら、僕が観ているものは結局のところ何なのか?

パフォーマンスの終盤。全ての音が消えた後に、一切の言葉を発しないまま、二人は水で薄まった〈パチパチパニック〉で満たされたワイングラスを手に取り乾杯。こうして公演は無言のまま終わった。見事なフリとオチ。コンビ芸人〈髭男爵〉の定番のギャグすら連想され、これはもう〈お笑い〉とすら呼べるかも?と一瞬笑いそうになったけれど、その解釈もやはり違う。アフタートークで判明したのだが、終始無言でASUNAのパートナー役を演じた女性は〈加藤りま〉。かつて〈ストロオズ〉としてデビューし、現在はソロとしてレーベル〈FLAU〉から音源をリリースしている〈音楽家〉だったのだ。女優、モデル、あるいはアイドル、もしかしたら人形でも可能かもしれない無言の役柄に、〈音楽家〉を配置しているところに、このパフォーマンスの〈音楽〉としての根拠を強く感じ、深く納得した。

観ているのか、聴いているのか? ハプニングなのか、演奏なのか? 演劇なのか、展示なのか、結局、僕たちは何を観て、聴いているのか? そんな問いかけがなんども去来し、余韻のように残る『Falling Sweets / Afternoon Membranophone』。優れた作品は、アートフォームを横断することすら自由なものだけれど、でも少なくとも僕はこの日、これは強く〈音楽〉であり、〈音楽家〉の行為だと感じた。次は年老いたスカウトマンのように目をつぶって、アーカイブされた『Falling Sweets / Afternoon Membranophone』を耳だけで聴いてみようか? 果たしてそれは〈音楽〉として聴こえるのだろうか?


梅津庸一展「ポリネーター」展評 〜ZIMAのロゴが改訂された2021年に〜

 

レビューとレポート(2021)

 

 現在、梅津庸一さんの作品や活動に注目する人々の多くは「パープルーム」以降の活動を受けてのものだろう。「パープルーム」の活動は、梅津さん個人の表現と比べて、実はとてもわかりやすい。「美術教育」「受験制度」「芸大」「コレクティヴ(芸術家集団)」など、はっきりとした「敵」が存在するからだ。明確に「現状への不満」と「クリアすべき問題」が指し示されているから、オーディエンスは追いやすいし、その行動に乗りやすい。それと比べると、梅津庸一展「ポリネーター」(ワタリウム美術館)は「パープルーム」のように目的が明示された展示ではない。

 

 僕が、梅津庸一さんと初めて接点を持ったのは、「パープルーム」よりも少し昔のこと。梅津さんキュレーションによる「ZAIMIZAMZIMA」(2009)というグループ展への参加がきっかけだった。財務省に関連する美術施設「ZAIM」に有名美術作家と、美術史的に厳密には真っ当ではない人(僕もその一人)を同時に集め、寝泊りをしながら制作。実際に展示会場では果実酒ベースのリキュール「ZIMA」が振る舞われた。ヴィジュアル系バンド「SHAZNA」のメンバー「IZAM」にちなんだ展示もあった。混沌としたこの展示に関する具体的な記録は、河出書房新社のサイトに今も残る「せかまほBLOG」が唯一だろう。

 

 この展示に梅津さんが僕を誘ったのは、『美術手帖』2005年6月号特集「物語る絵画」のインタビュー(聞き手・土屋誠一さん)がきっかけらしい。後に聞いたところ、梅津さんはこの特集号を注意深く読んでいたそう。この頃の僕、西島は、単行本『凹村戦争』でデビューした翌年、『世界の終わりの魔法使い』の一冊目を刊行したばかり。長いインタビューを要約すると、「僕の作品にはSF、エヴァ、岡崎京子など、オタク的で露骨な引用が多いけど、それは必ずしも読者に理解されるものではないし、そんな”オタク的教養”なんてわかってもらえないことを承知で、でも僕は自分がその影響下にあることに自覚的であるだけ。時代が進むごとに、誰もがその厳密さを忘れていく。別にそれでいい(仕方ない)と思う」というような内容。現状を諦めているのか、肯定しているのか、怒っているのか、我ながら伝わりにくいスタンスだなと再読して思う。

 

 ここで僕が語る「オタク的教養」と、梅津さんが語る「美術教育」や「近代」「受験絵画」などの言葉を入れ替えてみれば、スッキリする。問題意識の持ち方が似ている。梅津さんは時に「受験絵画」を痛烈に批判するけれど、同時に「仕方ない」とも感じ、それをテーマに展示を開いて「でも好き」「良さもある」という態度すら示す。体制へのアンチだけなら、数字で勝敗のつくスポーツや選挙同様に共有されやすく、結果オーディエンスを巻き込める。わかりやすい。しかし梅津さんの言説や表現は、好きとも嫌いとも、愛とも憎しみとも言いがたく、不思議だ。「ZAIMIZAMZIMA」展についても同様だろう。10年前の僕は戸惑っていた。でも、今、おぼろげな記憶と資料写真からわかるのは、実はこれが明らかに「パープルーム」の青写真だったことだ。美術のプロと素人を集め、権威的な場で全く権威的でない行いをし、制作期間と展示期間に作家が寝泊りする。これは梅津さんの現在の活動と大きく変わらない。

 

 梅津さんと僕、きっと周りからは相性がいいのではと思われているだろう。実際、すごく気が合うし、遠く離れて暮らしていてもなぜか親密さを感じる。思いつきで相模原にお邪魔することもあるし、約束もないのに偶然ばったり出会うこともある。お互いヴィジュアル系が好きだったり、実験的に「学校(予備校)」を運営してみたり、共通点もある。「パープルーム」以降に再会してからも、企画展「パープルーム大学 尖端から末端のファンタジア」(2017)、「パープルーム大学付属ミュージアムのヘルスケア」(2018)に参加したり、「パープルーム」所属作家アランさんと一緒にボードゲーム『影の魔法と魔物たち』(2020)を開発したり、その時々に交流がある。でも、僕の好きなヴィジュアル系と梅津さんが好きなヴィジュアル系は、実は世代も音も全然違う。接点はあっても、狭義な職業は、「画家」と「漫画家」だから違う。わからないこともある。

 

 「パープルーム」の活動は、梅津さん理解のための補助線となる。実際「パープルーム」を経由し、現在の視点から眺めることで、僕はようやく、10年以上前の「ZAIMIZAMZIMA」のことを少しずつ理解し始めている。介護スタッフの経験から梅津さんが導き出した「美術作品=ケアが必要でお金がかかり壊れやすいもの=介護」という例えも、言われた当時はピンとこなかったけれど、少し時間をおき、認知症の進む義父の介護に直面している現在では、強い実感をもって理解できるようになった。美術業界の権威や教育制度に怒る態度に共感はできなかったけど、大手出版社から権利を取り戻し「セルフ・パブリッシング」を行う最近の僕は、その不満についても共有できるようになった。2009年の展示の時、梅津さんからの唯一の指令は「この展示について(マンガ読者に向けた)宣伝をしないでほしい」だった。その意味も、今ならわかる。

 

 例えばベトナム戦争やCOVID-19。戦争や厄災という「歴史」が正しく語られるまでには、それなりに時間がかかる。それは報道の即時性の罪ではなく、芸術であれマンガであれ「作品」の使命だと思う。「ZAIMIZAMZIMA」同様に、梅津庸一展「ポリネーター」は、やはり長い時間をかけないと理解しづらい展示と言えるだろう。飾りやすく保管しやすい絵画作品よりも、置く場所や管理に困りそうで、やや唐突と思える陶芸作品の方が圧倒的に点数が多い。民芸の歴史を参照し、作品の居場所を説明するような、理解を促す詳しい解説が添えられているわけでもない。キャッチーで忘れがたい「花粉濾し器」は間違いなくこの展示のアイコンだと思うけれど、せっかく飛んでいる「アートの花粉」を選別する機械なのか、増幅する装置なのかわからない。そもそも機械なのか植物なのか、全くわからない。曲がっていたりくたびれたり、明らかに男根を思わせるヤシの木の陶芸も、味わい深い一方、それ以上の情報は探りにくい。瞬間で「わかる」ことや「流行る」「バズる」ことを拒んでいるようにも感じる。

 

 同時に、来場した観客を納得させるだけの点数と熱量は確実にそこにある。一見ゆるゆるでリラックスしているのに、ピンと気合いはみなぎっている。作家は作品の中で文字通り裸にもなっているし、意気込みを強く感じる。使われた粘土の総量を想像すると途方もないけれど、使用された粘土の総量の数値化すらしない。「パープルーム」との関係や、梅津さん個人のキャリアすら、詳細な解説が見当たらない。しかし、そうすることで、「行列に並んで行列を作る」「流行っているから行く」そんなインフルエンサー的、バズ的な反応を「濾し器」が濾しているのだと思う。でも、本来個展とは、個人の芸術表現とは、そういうものなのではないだろうか。

 

 何気なく床に置かれた展示作品の一つ、その隅に、スプレーで描いたような文字の跡があって、よく見るとそれは「ZIMA」のロゴだった。2021年の今、美術館でそれを気にするのは僕だけ? ちなみにお馴染みの「ZIMA」のロゴは今年7月リニューアルされたらしい。やはり、この「ポリネーター」は10年以上前、「ZAIMIZAMZIMA」の頃から始まっているし、「パープルーム」の活動を挟み連動しながら、すべては繋がっているのだなと実感した。もしかしたらこの個展を真に理解するには、やはりこの先10年くらいの時間が必要なのかもしれない。そう考えると、「ポリネーター」はこの先の未来の展示でもあるだろう。途方もない時間をかけてその作家を理解すること、考えること、それこそが、思考なしに最速で消費できるブロックバスター展が溢れ、Instagram以上のギャラリーを誰も見つけられないこの世界に抗う、観客にできる唯一の試みであり、何者にも頼らない「個展」の使命だ。「ポリネーター」展は、梅津さんは、それを全うしている稀有な作家だと思う。